RUN for UTMB®︎あるいは僕の、走ることについて語るときに僕の語ること。

2018年UTMB®リタイアからはじまる50代トレイルランナーの挑戦記。

2月13日(水)養成講座Ⅲ

 今年度のコーディネーター養成講座の最終セッションで東京へ。

 ネルシャツ、バルーンウールのジャケットにダウンコートのレイヤードは、明らかにオーバー装備だった。ふだん暖房の効かない環境で仕事をしているため、たまに出かける都会は本当に暑い。それでも会う人から「東京は寒いですね」と同意を求められると「そうですね」と笑顔で返す。そんなところで「いや都会は暑いです」と感じたままに答えても、相手が困るだけだ。僕だって困る。

 ところが、最近は「いえ僕は都会は暑いと思いますね」と答える人がいて、僕は「あ、そうですか」と答えるしか返しようがないときがある。そういう人たちに、それはちょっと違うのではないか、と言おうものなら「正直に答えて何が悪い?」「感じたまま答えたらあかんの?」と逆に疑問を提示されて、徒労感が募る。大人のコミュニケーションというものが通用しない大人が増えているように思うのだが、どうだろう。

 今日のじぶんの責任分担は午前中の1時間半のみ。いつもより短い時間なので、常に時間をチェックしながらの進行だったが、想定した進行通りに終えられた。参加者も満足したようだったので、役目を果たせてよかった。

 17時市ヶ谷終了で、19時発。「紺屋高尾」と「たらちね」に癒やされる。

2月12日(火)黄洟は完治。

 どうやら昨日で黄洟は治まったようだ。残るは咳と痰。それも、頻繁に出るわけではないが、吸入薬と漢方はまだ飲み続ける必要があるだろう。

 今日は午後から他園の質向上のお手伝い。午前中は準備。

 連休の筋肉痛がふくらはぎと臀部に残っているので、仕事がなくとも休んだほうがいい日だ。焦ってもいいことはない。

ランニングは僕にとって何を意味するのか。

 とあるサイトで世界のトップアスリートたちに投げられた質問ーーーランニングはあなたにとって何を意味しますかーーーを興味深く読んだ。

 僕にとってランニングは何を意味するのか。

 この問いは、すでに何年か前に僕は自問自答していた。

 そのとき僕は「僕にとってランニングは、じぶんがじぶんであることを正しく証明できる唯一の手段であり、じぶんが行うすべての行為のなかで、唯一じぶん自身が「正しい行い」ができている、と認めることができる行為である」と答えた(加筆修正あり)。

 この思いは、いまの職業に就いて確かになった。例えば僕はレースで園を年間数日休むことになる。もしその数日が、パチンコをするためだったらどう思われるだろう。カジノに通うためだったらどうだろう。人びとは好意的に受け取ってくれるだろうか。

 多くの人は、誰しも走った経験があり、それがどのくらい肉体的苦痛を伴うものか、精神的しんどさを味わう事かを知っている。だからこそ、じぶんの身体を好き好んで痛めつける人に対して「じぶんには理解できないけど、なんだか凄い」と好意的に受け取ってもらえるのではないだろうか。つまり、走ることは、走らない人から見ると、ずいぶん控えめに見積もったとしても、パチンコをする人よりも肯定的に受け入れられるのではないか、と思うのだ。走る習慣の無い人からすると、100kmや170km(しかも山の中を)を走る行為は、馬鹿げた行為であると同時に想像を絶する行為である。そんな苦しい、面白くなさそうなことに心身を削って没頭するのは、まあ変なことではあるが、眉をしかめるようなことでなく、むしろある種の賞賛をもって受け入れられるように、僕には思える。だから僕は「あなたにとってランニングは何を意味するのか」と、問われたときに、前述のように答えるに至ったのだ。

 なぜ、あなたは走るのか。あるいは、走ることの何が面白いのか。しばしば僕が、僕をよく知る周りの人から尋ねられる質問だ。確かに。(まったく走らない)他者の視点に立ってみれば、なるほど、もっともな問いである。

 なぜ僕は、真夜中の山の中を孤独や不安、寒さや痛みを感じながら走る(歩く)のか。何度も何度もリタイアの苦しみを味わいながら、またスタートラインに立つのか。

 ときどき、ランナーたちからこんな声を聞くことがある。

 「苦しんで走っているとき、何でじぶんは、こんな(馬鹿げた)ことをしているのだろう。もうこんなしんどいことは止めにしよう」と言った類いの話だ。

 僕は、何度も似たような状況にあったが、こういう心境になったことはない。なぜなら、僕自身、前述したように「何でこんな馬鹿げたことをしているのかは答えが明白すぎる」からだ。じぶんがじぶんである、と認められる唯一の行為。子どもの頃から走ることが好きで得意で、走ることによってじぶんはじぶんを肯定してきた。走ることは、僕にとって、僕が僕であるためのすべてである。走っているときこそが、どんな体調や状況であれ、それはじぶん自身が最もじぶんらしくあれるときであり、心から楽しいと思える行為なのだ。

 さらに言えば、自然のなかは、じぶんにとって最も心地よくいられる場所である。それは海と山に挟まれた狭い土地に生まれ育ち、海や山で遊ぶことによって、何か机上では学べないこと、体験できない感覚を得てきた実感があるからだと思う。

 走ることと自然のなかにいること。その二つを同時に実現できる手段が、トレイルランニングである。もうひとつ付け加えるなら、幼児期から、人と競走することが好きだった。もちろん、競走すると一番になる、というギフトがじぶんに届けられるからだ。逆に言えば、競走以外に自尊感情を満足させる場面がなかったとも言える。走ること、自然のなかにいること、競走すること。この三つが組み合わさったトレイルランニングレースは、じぶんにとってじぶんであることを証明する手段であり、じぶんが最も心地よくいられる「場」なのだ。

 少なくとも、いま、じぶんがこうしてトレイルランニングレースに参加することは、じぶんの人生にとってプラスの影響を与えていると確信している。もしいまのこの確信が薄れるようなことがあったら、僕は走ることを止めるのかもしれない。いまは、そんなじぶんをまったく想像できないが。

 

 

2月11日(月祝)夫婦で雪中ハイク

 毎年ある、というわけではないが、今日は「夫婦でハイク」の日。
昔「夫婦でワイン」というコピーがあったが、それはわが家の場合毎晩に近い日常のことなので、わが家では取り立ててのコピーにはならない。でも、夫婦でハイクあるいは家族でハイク、は意外と少ないのだ。ほんとに、意外と。

 そんなわれわれにとって2月の週末は、図らずも「いい夫婦の日」になることが多い。なんでだろう。割とこの時期仕事もゆるやかで、僕自身はレースも無いからなのかな。まだシーズンが始まったばかりで余裕があるからかもしれない。

 昨年は、ふたりが大好きな、故小津安二郎監督を偲ぶ旅に尾道を訪ねた(小津監督が泊まった部屋に泊まり、原節子が泊まった部屋で朝食をいただいた)。一昨年はドカ雪が「降ったから」わざわざ(皆が行かない)三朝温泉に行った。

 で、今年は僕の病み上がり(正式には途上だが)を祝して六甲山を歩くことにした。昨日は好天のなか、単独で塩屋から新神戸をコンプリート。で、今朝起きると、なんと外は雪。市街は積もる気配はないが、山を仰ぎ見ると、みるみる白く染まっていく。

 さて、どうするか。

 とりあえず朝食をゆっくり食べて考えることにする。

 決定権は、この場合もちろん弱者(家人)にある。昨日も書いたが、彼女は数十年前はアマチュアトップのトライアスリートだったが、数年前の東京マラソンで膝を壊して、いまはまったく走ることを休止しているばかりか、運動といえるすべての事を回避した生活を送っている。膝に負担のかからない水泳と、年に二度か三度の山歩きが関の山である。積雪ハイクは過去にしたことはあるが、果たして今日がその日であるかどうかは本人の体調と気分次第である。

 朝食を終えて、なお思案する。娘お花のリクエストで今日中にケーキを焼いて送る、というミッションも家人はこなさなければならないらしい。となると、疲れすぎてもいけないし、午後4時には帰宅しておかなければならないという。

 僕が想定しているルートなら、ゆっくり歩いても午後4時には確実に帰ることは可能。最悪途中で体調が悪くなれば引き返せばいい。そう見通しを話すと、ようやく意を決したように「行く」となった。

 目指すルートは、新神戸〜布引の滝〜市ケ原〜摩耶山摩耶山からはロープウエイとケーブルカーで麓に降りて電車で帰る、という計画だ。ゆっくり歩いても、昼頃には山頂に着く。市ヶ原から摩耶山までは距離はたいしたことはないが、上りごたえがあるので、山頂のカフェでランチをして帰れば十分満足感はあるだろう。そうと決まれば準備を整えて出発だ。午前9時過ぎにホテルをチェックアウトして山を目指した。

 僕自身も昨日の疲労が脚に出ていて、ゆっくり歩くことに異存はない。なにしろ病み上がり(途上)でいきなり2日続けての歩荷ハイクである。無理して後戻りするのは、あってはならない。

 歩き始めは雪が止んでいた。このまま今日はもう降らないのだろうか。そう思いながら最初の長い階段をゆっくり上り、布引の滝に着く。昨日にも増して水量が少ない。滝の上流は凍っているのかもしれない。貯水池に着く頃には雪がちらほら舞ってきた。市ヶ原でトイレ休憩をして、いよいよ摩耶山までの上りに取り付く。裏六甲への分岐を右に折れ、本格的な上りに入る。しばらく歩くとトレイルの両側や木々の葉に、積もる雪が見られるようになってきた。さらに高度を上げる。ふたりとも足の運びに不安はない。ひとつめのピークに差し掛かる頃から、だんだん積雪が増えてきた。尾根の向こうに見える向かい側の山の木々も、いつの間にか白く染まっていた。ふたつ目のピークを目指す頃には、トレイルはすっかり雪景色となった。降り始めから続く雪が足元の道を覆うようになってきた。降ったばかりの雪は、ふわふわと軽く、シューズを濡らすことも少ない。六甲山系で、さくさくと新雪を踏みしめて歩ける日なんて、ひと冬にそうあるものではない。今日は、非常にラッキーな日であることを実感する。踏み跡を見れば、先行者は何人かいることがわかるが、先行者が歩いた跡に降り積もる新雪でトレイルは新たな雪道をつくってくれ、まるでわれわれが初めて足跡を残すかのような気分にもなれて気持ちがさらに昂ぶる。

 アップダウンを繰り返し、曲がり道を回るたびに新しい景色に出合い、そのたびに写真に収めたくなり立ち止まる。風もなく、雪は空からまっすぐに降りてくる。何度か着ているレイアリングを変えて温度調節も行い、いまは雪景色のなか快適に歩くことができている。なかなかこんな状況では歩けないことに感謝して歩く。

 最後のゴロゴロ坂を上る。家人はさすがに疲れがでてきたようだが、それでも歩くことの楽しさは満喫できているようだった。最後の階段を上ると、そこは一面雪の絨毯が敷き詰められていた。麓からたった6km、3時間弱でこれほどまでの感動を味わえるなんて、本当に贅沢でありがたいことである。

 摩耶山・掬星台も一面見事な雪野原。お腹もいい具合にすいてきて、目指してきたロープウエイ2階にあるカフェでカレーライスをいただくことにする。心地よい疲労感がじんわりと癒やされていく。このご褒美があるから、山歩きが一層魅力を増す。これこそが六甲山が六甲山として、「おらが山」として、市民に愛され続ける所以である。歩いた人にだけわかる、この充実感。たまたま、そんな日に巡り会えたことに感謝。どん底からの練習再開は、どうやら神様から祝福されているように思えた。


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2月10日(日)3週間ぶりに練習再開

 2/10-11は2連休。香港以来実に3週間ぶりの「運動」として、西六甲縦走路を「歩く」ことにした。思えばウルトラトレイルレースでは、ほぼ上りでは歩き通しているので、歩くことをもっと練習すればいいのではないか、と仮説を立ててみた。リタイアする寸前の歩きは、歩くことさえもままならない状態がつづく。普通にアベレージで歩き通すことさえできれば、平均速度でいえばUTMB®も完走は可能なはずなのだ。

 歩き続ける筋持久力の強化。中途半端にトレイルを走るよりも、今年はバックパックを大きく重くして、長時間歩き続ける練習を続けてみようと思う。

 先日トレーナーのN氏から最大心拍数はいくらかと聞かれて「190は超える。下も60は下がらない」と答えると「それってウルトラレースに向いてないってことですよね?」と指摘された。もちろんその身体的特徴は自覚していたので「たぶんフルマラソンからアイアンマンくらいがちょうどいいのかも」「でも好きなんだから仕方ない」と自嘲するしかなかった。子どもの頃から短距離から長距離までそこそこ走れた。野球部では塁間はいちばん速かったし、冬場の長距離走も先頭を引っ張った。子どもの頃からずっと走ることは得意で、30代半ばできっぱり走ることを止める時点までは、フルマラソンくらいの距離はまあまあ走れていたのだ(アイアンマントライアスロンのランのベストは3:35、フルマラソンのベストは2:50、六甲山全山縦走は5:15、サブスリーは32歳が最後)。
 でも、強いウルトラランナーたちからよく聞くのは「子どもの頃は走るのは遅かった(好きではなかった)」「大人になってから走り始めた」という言説。かくいう家人も「子どもの頃は脚が遅かった」のに、アイアンマントライアスロンではアマチュアトップだった。

 そんな数々の事実を思い知らされるにつれて、どうひいき目に見てもじぶんは超長距離は「向いていない」という現実を受け入れるしかないように思えてきた。でも、好きなんだから仕方ない。大人になってから向いていないことを好きになるのは、なかなか興味深い体験である。おかげで、若い頃には味わえなかった挫折や無力感を痛いほど味わえている。

 で、本日の新しい練習の最初のルートは、六甲全山縦走の西の端である塩屋をスタートして、ほぼ中間点の新神戸までの西六甲縦走。もちろん、ただ歩くのでは練習にならないので、新神戸で家人と合流して一泊することにして、バックパックには防寒着や食料やJetBoilなどの「必須装備」に加えて、必要以上の水や着替え、使うかどうかわからないMacBookなどで荷物を重くすることにした。約13kgくらいをPatagoniaの30リットルにパッキング。ふだん背負うのは重くても4kgくらいなので、結構重く感じる。最初の試みなのでこのくらいが適当だという重さだ。

 朝から快晴だが、寒波のせいで気温は下がっている。9時すぎに家を出ると、町は正月のように静まり返り、クルマの往来も少ない。寒さのあまりか。快速に乗って西へ。車内もガラガラ。須磨で普通に乗り換えて塩屋へは10時を少し回ったところで着いた。

 SUUNTO9をセットして歩き出す。住宅街から山へ入る最初の階段から息は上がらないがハムストリングス疲労が溜まる。須磨浦山上公園、旗振山、鉄拐山、横尾山、須磨アルプスを経て妙法寺までバックパックの重さは気になるものの脚は余裕がある。左の鼻からは、まだ頻繁に黄洟が出て、手鼻をかまなければならないことがやっかいだ。

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 妙法寺のローソンに立ち寄り、カップ麵、スニッカーズ、インスタントのミルクティとドリップバッグのコーヒーを購入。高取山にはいつもより1時間50分も遅く到着。高取神社を参拝してお花の合格祈願守りを買うと、ちょうど初午祭で甘酒のふるまいがあるという。せっかくなのでありがたくいただく。ショウガが利いていておいしかった。 高取山からの下りでちょうど時間もいいので、丸山町を見渡す最後の広場で持参した菓子パンを食べることにする。JetBoilで湯を沸かし、ローソンで買ったミルクティーを飲む。味は香港ミルクティーには及ばないが温かさが腹に染みる。

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 鵯越をすぎ菊水山に差し掛かる頃にはハイカーもすっかり少なくなる。菊水山頂上は、いつもの2時間遅れ。天王吊り橋の手前の池に、マガモのつがいが2組いた。本当に寒いときは凍っているが、今日はまったく凍っていない。

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 あとの上りは鍋蓋山だけ。ペースを維持してゆっくり上る。昨年から鍋蓋山界隈は間伐が始まり、トレイルは明るくなって、今までまったくなかった海側の眺望も開けるようになった。あと一年くらい手入れはされるようだ。少なくとも30年は手入れをされてこなかった森。以前とは比べものにならないほど歩くことが楽しくなる。大竜寺をすぎ市ヶ原まで、トレイルの案内標識も新しく付け替えられている。時刻は午後5時。新神戸までは小一時間で着く。どうやらヘッデンは使わずに済みそうだ。

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 布引貯水池はずいぶん水かさが減っていた。布引の滝(おんたき)は、水量がちょうど布を引くような流れをつくる量で、夏のごうごうと落ちる滝よりも品がある。

 

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 塩屋から7時間23分、25km。明るいうちに新神戸駅に着いた。ウルトラトレイルのための初めての歩荷練習は、よい手応えを感じて終えることができた。この練習、しばらく続けようと思う。それにしても左鼻からは、まだ黄洟が出る。やれやれ。

 

www.movescount.com

 

1月24日(木)〜2月9日(金)失われた3週間。

 香港後は、近年ないほど体調を崩した。風邪をひいた状態でウルトラトレイルを走ったツケは半端なく大きかった。他人からみると当たり前だとあきれられるが、じぶんの事になると、なんでも実際にやってみないと信じられない性分なので仕方ない。

 症状としては、とにかく咳がひどく、黄洟がおさまらず、熱が上がったり下がったりを繰り返す。かかりつけの耳鼻咽喉科を受診し薬をもらうが、いっこうに治らない。

 仕事はその間、新潟出張を皮切りに、新入園児保護者説明会、新入園児保護者講演会、市の指導監査、小学校引き継ぎ、見学2件、そして、ねらいづくりMTGが毎日のように入り、なんとかこなす。1/31のリーダーMTGだけはパスさせてもらった。2/5(火)からは3晩寝汗がひどく(最も多い日は、ひと晩で4回寝間着を替えた)、体重はこれまで見たことも無い58kg台にまで落ちた。治りかけのときには寝汗をかくと言うが、そうであってほしい。もういい加減。

 2/8(金)にようやく時間がとれたので、かかりつけの総合病院の内科医Sドクターに診てもらう。診たところ症状はもう峠を越えているらしく「もっと早く来てくれたらよかったのに」と苦笑される。来たいのはやまやまだが、1回の診察に2時間はみておかないといけないので、そうそう簡単には時間がとれなかったのだ。血液検査の結果は、ほぼ悪い数値はない。いつもは3桁、レース後は4桁になるCPKが2桁だったのが一番の変化。この3週間、まったく運動ができず、筋肉が落ちまくっている証拠である。気管支炎になっていたのだろうと、吸入薬と漢方薬抗生物質を処方される。これまで効き目のなかった薬から、新たな処方が出されるだけで、精神的に「これで治る」と救われた気持ちになる。来週、改善が見られなければ再来週頭に再診に来てと告げられる。ほんとうに、もっと早く来ておけばよかった。今後は、体調不良が起きたらすぐにSドクターに診てもらおう。

 こうして9月から積み重ねてきたトレーニング成果も3週間で一気に崩れた。次は2週間後2/23(土)の善通寺60K。Sドクター曰く「(走れる準備ができる)ぎりぎりですね」と。「3周回なので、行けるところまでで止めます。レースですが練習としての参戦なので」と、一応常識的な応えをしておく。なんとかビリ完走を目指して、2週間で6割くらいまでは戻したい。

 そして、この故障中に、僕は55歳になった。

1月23日(水)帰国

 昨晩も咳がひどく出た。

 5時半に予約したタクシーを待つ。ホテルの係員に空港までは200ドル以上300ドル以下と教えられる。カードは使えるかと聞くと使えないという。僕らは現金が無いと言うと現金しか使えないの一点張り。現金は無いとさらに詰め寄ると、近くに銀行ATMがあるからそこへ行けという。なんだ、最初からそう言ってくれよ、と思う。

 香港空港でさらにお土産を買い、朝食を食べる。搭乗階で朝食を食べられる店を探して麵を食べる。ここがいまいちだった。そのあとWi-Fiルーターを返しに行くと、1階のレストランも営業していた。到着した日に列をなしていた小籠包の店もガラガラだったので、惜しいことをした。

 定刻通り飛行機は離陸し、羽田へ。お花とは東京で別れるために、一緒に羽田から東京駅まで帰る。楽しかった5日間も無事終わり。僕は山手線を東京駅で降り、お花はそのまま池袋まで。手を振って別れた。これで次会うのは春休みとなる。

 僕は新幹線に乗り換えて家路につく。

 帰宅後、咳がだんだんひどくなる。身体の疲労感も徐々に増してきた。夕食は久しぶりに寿司を食べに出かけ、早めに寝た。