RUN for UTMB®︎あるいは僕の、走ることについて語るときに僕の語ること。

2018年UTMB®リタイアからはじまる50代トレイルランナーの挑戦記。

ランニングは僕にとって何を意味するのか。

 とあるサイトで世界のトップアスリートたちに投げられた質問ーーーランニングはあなたにとって何を意味しますかーーーを興味深く読んだ。

 僕にとってランニングは何を意味するのか。

 この問いは、すでに何年か前に僕は自問自答していた。

 そのとき僕は「僕にとってランニングは、じぶんがじぶんであることを正しく証明できる唯一の手段であり、じぶんが行うすべての行為のなかで、唯一じぶん自身が「正しい行い」ができている、と認めることができる行為である」と答えた(加筆修正あり)。

 この思いは、いまの職業に就いて確かになった。例えば僕はレースで園を年間数日休むことになる。もしその数日が、パチンコをするためだったらどう思われるだろう。カジノに通うためだったらどうだろう。人びとは好意的に受け取ってくれるだろうか。

 多くの人は、誰しも走った経験があり、それがどのくらい肉体的苦痛を伴うものか、精神的しんどさを味わう事かを知っている。だからこそ、じぶんの身体を好き好んで痛めつける人に対して「じぶんには理解できないけど、なんだか凄い」と好意的に受け取ってもらえるのではないだろうか。つまり、走ることは、走らない人から見ると、ずいぶん控えめに見積もったとしても、パチンコをする人よりも肯定的に受け入れられるのではないか、と思うのだ。走る習慣の無い人からすると、100kmや170km(しかも山の中を)を走る行為は、馬鹿げた行為であると同時に想像を絶する行為である。そんな苦しい、面白くなさそうなことに心身を削って没頭するのは、まあ変なことではあるが、眉をしかめるようなことでなく、むしろある種の賞賛をもって受け入れられるように、僕には思える。だから僕は「あなたにとってランニングは何を意味するのか」と、問われたときに、前述のように答えるに至ったのだ。

 なぜ、あなたは走るのか。あるいは、走ることの何が面白いのか。しばしば僕が、僕をよく知る周りの人から尋ねられる質問だ。確かに。(まったく走らない)他者の視点に立ってみれば、なるほど、もっともな問いである。

 なぜ僕は、真夜中の山の中を孤独や不安、寒さや痛みを感じながら走る(歩く)のか。何度も何度もリタイアの苦しみを味わいながら、またスタートラインに立つのか。

 ときどき、ランナーたちからこんな声を聞くことがある。

 「苦しんで走っているとき、何でじぶんは、こんな(馬鹿げた)ことをしているのだろう。もうこんなしんどいことは止めにしよう」と言った類いの話だ。

 僕は、何度も似たような状況にあったが、こういう心境になったことはない。なぜなら、僕自身、前述したように「何でこんな馬鹿げたことをしているのかは答えが明白すぎる」からだ。じぶんがじぶんである、と認められる唯一の行為。子どもの頃から走ることが好きで得意で、走ることによってじぶんはじぶんを肯定してきた。走ることは、僕にとって、僕が僕であるためのすべてである。走っているときこそが、どんな体調や状況であれ、それはじぶん自身が最もじぶんらしくあれるときであり、心から楽しいと思える行為なのだ。

 さらに言えば、自然のなかは、じぶんにとって最も心地よくいられる場所である。それは海と山に挟まれた狭い土地に生まれ育ち、海や山で遊ぶことによって、何か机上では学べないこと、体験できない感覚を得てきた実感があるからだと思う。

 走ることと自然のなかにいること。その二つを同時に実現できる手段が、トレイルランニングである。もうひとつ付け加えるなら、幼児期から、人と競走することが好きだった。もちろん、競走すると一番になる、というギフトがじぶんに届けられるからだ。逆に言えば、競走以外に自尊感情を満足させる場面がなかったとも言える。走ること、自然のなかにいること、競走すること。この三つが組み合わさったトレイルランニングレースは、じぶんにとってじぶんであることを証明する手段であり、じぶんが最も心地よくいられる「場」なのだ。

 少なくとも、いま、じぶんがこうしてトレイルランニングレースに参加することは、じぶんの人生にとってプラスの影響を与えていると確信している。もしいまのこの確信が薄れるようなことがあったら、僕は走ることを止めるのかもしれない。いまは、そんなじぶんをまったく想像できないが。