RUN for UTMB®︎あるいは僕の、走ることについて語るときに僕の語ること。

2018年UTMB®リタイアからはじまる50代トレイルランナーの挑戦記。

11月10日(土)調子悪い?なら、迷わず走ろう。21km

 秋晴れの土曜日。

 それは、かつては一週間いや一年で最も甘美な日であった。
暑くもなく寒くもない、ちょうどいい気候。紅葉もピークを迎える。
何をしてもいいし、何もしなくてもいい。
ウイークデイを昼夜を問わず馬車馬のように働き花の金曜日を経て、翌日は日曜日という、100%じぶんに与えられた「自堕落」が許される、ご褒美の日。 

 しかしそれも4年前から、カレンダーからそんな人生で最も甘美な土曜日は削除され、もちろん本日も仕事である。

 本日は午前中は0,1,2歳児クラスの保護者懇談会。
 僕は最後に話すため、わずかな時間しか残されない。その時間で話したことは、DoingとBeingのこと。0歳〜2歳は言葉によるコミュニケーションもできないことをはじめ、いろんなことが「できない人」として扱われる。そのため、何もできなくても大人はありのままを受け入れることを「当たり前」の接し方であると信じている。いっぽう言葉を獲得していろんなできることが増えてきて可能性が見えてきた3歳以上の子どもに対しては「よくできたこと」をたくさん褒める。
 しかしそれは、まったく逆である。
 2歳まではできることがたくさんあり、できたことをたっぷり褒める時代。3歳以上は、できたかできるかではなく、在ることそのものを奇貨として存在に感謝する時代である。そんなことを話した。

 懇談が終わって、気になる年長児保護者を招いて(正しくは呼び出して)の四者面談。四者とは、園長、理事長、母親、父親。つまり、一人の子どもを育てる責務を負った家庭と施設の「責任ある大人」の、真剣勝負の対話である。
 こんな面倒なことは、しなくてもまったく構わない。というか、多くの園ではしていない。
 したとしても、まったく園の評価が上がるわけでもない。むしろ関係性を悪くするリスクをはらんでいる。拾わなくとも良い火中の栗をわざわざ拾いに行く行為(システム)である。それでもわれわれは、信念をもってそれをする。なぜなら、僕らの目の前に生き苦しんでいる子どもがいて、その子にどうかかわっていいかわからない親がいることを知ってしまったからだ。知った限りは放っておくことはできない。僕も園長も、そういう性分なので仕方ない。そうでない性分ならずっと楽なのにと思うが、それはないものねだりである。
 そこで話したのは、生き苦しんでいる5歳の彼は、とっても興味深い人物であるし、しかるべく大人が誠心誠意関われば彼自身の個性は素敵に輝くだろう、ということだった。ただし、それができる大人はとても少ないかもしれない、とは言わなかったし、それは言うべきではないと思う。

 懇談が終わってすぐに、来年の遠足の下見にリーダーたちと能勢まで。まずまず使えそうな場所だった。往復2時間以上運転手を務めたが、まだ疲労感があり非常に眠い。
 帰宅後はとりあえず寝ようと思い横になるが眠れず。その間、身体に調子をうかがう。なんとか走れそうというフィードバックを得たので、記念公園へ夜ラン。

 様子見でペースを自重して走り続けると、12km過ぎから調子が戻ってきて、記念公園のラスト閉場の21時までで21kmを久しぶりに気持ちよく走りきることができた。

 やはり、調子の悪いときは休むのではなく、走ったほうが返ってくるギフトは多いと実感。その回復ランを成功させるコツは、調子がよくなってきても決してペースを上げないことは必須課題。調子がよくなってきたときに、ついついペースアップして幾度となく失敗した経験を、もうそろそろ生かしてもよいだろうと、何度も同じ失敗を繰り返すじぶんに対してあらためて戒めた。

 明日は親子ハイキング。四十数名の親子を引率して6時間ほど六甲山を歩く。幸い天気は良さそうだし、紅葉ざかり。13家族の忘れられない思い出づくりのアシストを楽しめそうだ。

 晩飯は、宵越しの白菜豚煮(若干微妙に味が変わっている)とチーズと、珍しく白ワイン。いい組み合わせだった。

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